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表紙  シルクロード大走破 風の旅 旅程  北緯40°どこまでも西へ
旅行記  馬閑人 西方見聞録
1 中国T ( 西安 ・ 敦煌 ) 2 中国U ( 新疆ウイグル自治区)
3 カザフスタン ・ キルギスT 4 キルギス ・ カザフスタンU
5 ウズベキスタンT 6 ウズベキスタンU
7 トルクメニスタン 8 イランT
9 イランU 10 トルコT
11 トルコU  (は現在地です)
西安着

西安空港では、出迎えの現地ガイドがいない。
待つこと30分余。 あたふたと駆けつけたガイド氏いわく、「国際線で待っていた」
そんなアホな。 旅行社同士で便名の確認くらいしているだろうに。 少し不信感を持つ。
夕食は、泊まるホテルとは別のホテル。 その前に、止まるホテルに立ち寄り、西安で合流するU氏をピックアップ。
夕食にありついた頃は日付が変わっていた。
ところで、この旅行の参加者は9名。うち、女性3名。 そして、私が最年少。
酒好きは、U氏と、私、そして添乗員氏の3人だけ、と判明。 ま、いいや。
中国本土 初上陸

順調に飛んで、中国本土への初上陸を果たす。 空路を飛んできて、ぽんと降り立つのだから感激も何もないが、
同じ時間帯に日本からの4便が集中して、入国審査の渋滞は大変なもの。
後で触れる中国出国時の混乱はないが、それにしても、ゲートが少なすぎる。順番を待つのに30分かかった。
西安行きの国内線乗換えでは、私のスーツケースが引っかかった。 OPENチェック。乾電池が起爆装置に見えたか?
彼が、この交易路を Seidenstrassenn (独) Silkroad (英) と命名したのは19世紀の終わりの頃だ。
この言葉を日本語では 「絹の道」 と訳し、 中国語では 「絲綢之路」 と書く。
私が参加する 「シルクロード大走破」 は、
お仕着せの、いいとこ取りの、至れり尽くせりのパックツアーだが、でも、探検家でも、冒険者でもない凡人が
バスに揺られての2ヶ月の旅行はフツーじゃなかった。
今の私に、敦煌をバスで発って、イスタンブールまで走り続ける命題はない。
単に、20年余の夢を果たす物見遊山に過ぎなかったかも知れない。
いにしえ人のシルクロード往還の旅とは比べるべくもないが、ヤワイ現代人にとって、この長旅は、相当にタフな旅行となた。
タフさが要求されたのは、思いもしなかった、旅行に参加する構成メンバーによってだった。
某旅行社のブラックリストに載っている 「あの馬鹿」 さえ居なければ、この旅行はもっと楽しく充実していただろうに。
「あの馬鹿」 については、旅行を終えたいまでも腹の虫がおさまらないから、項を改めて記述する。
2005年3月。 パタゴニアを旅した。
日本から2万キロ。 地球の裏側のブエノスアイレス。そこから更に3000km南の地球の陸地の最南端。
人生でこれ以上の旅はない、私の空前絶後の旅だと思っていた。
そんな私に‥‥ 西遊旅行から一枚の旅行パンフレットが届いた。
敦煌からイスタンブールまで  シルクロード 大走破  54日間 ! ‥‥‥ こんなツアーがあるん!?
シルクロードの遠大さを実感するには、端から端まで走破するしかない。 つぎはぎの旅はしない。  私の持論だった。
昔からの夢が夢でなくなった.。
2005年夏〜秋。  シルクロード大走破の旅に出かけて来た。 人生で最大の旅だった
どこで、何を見、何を感じたかよりも、無事に行って来れたか、がこの旅の最大のテーマだったけれど‥‥。
表  紙  シルクロード大走破 風の旅       旅  程  北緯40°どこまでも西へ

旅行記  馬閑人 西方見聞録
        1 中国T ( 西安 ・ 敦煌 )  「ゴビ灘をわたる風」
        2 
中国U ( 新疆ウイグル自治区  「白楊溝廃寺に吹く風」 他
        3 
カザフスタン ・ キルギスT  「中国 ・ カザフ国境に澱む風」 他
        4 キルギス ・ カザフスタンU  「古戦場の長閑な風」
        5 ウズベキスタンT (サマルカンド ・ ブハラ)  「ティムールの門 の風」
        6 
ウズベキスタンU (ヒワ)  「綿花畑の乙女にそよぐ風」
        7 トルクメニスタン  「旅先にまで娑婆の風」
        8 イランT (テヘラン)  「星霜30年、テヘランに吹く風」
        9 イランU (ペルセポリス ・ イスファハン)  「ペルセポリスの暑い風」
        10 
トルコT (カッパドキア)  「アナトリア高原の風」
        11 トルコU (イスタンブール)  「海峡の街で いい気分の風」 
ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を 「シルクロード」 と呼んだのはドイツの地理学者 ・ リヒトホーフェン だ。
彼は著書の中で、古代の東西交流の歴史で最も重要な役割を果たしたのは絹の交易であった、と論じた。
シルクロード 風の旅 概念図
私 と シルクロード
シルクロード とは、数千年の歴史を持つ、アジアとヨーロッパを結ぶ東西交通路である。
大別して、北から、北緯50度付近の草原 (ステップ) 地帯を東西に横断するステップ路があり、遊牧民に利用されてきた。
次に、北緯40度付近に点在する中央アジアのオアシスを結ぶオアシス路がある。
第3に、紅海またはペルシャ湾から東南アジアを経て華南に達する 南海路 (海のシルクロード)がある。
日本人がイメージする 「シルクロード」 は、河西回廊からタクラマカン砂漠のオアシスをたどった隊商路で、
イメージの形成には石坂浩二が語ったシルクロード (NHK) の放映が大きく影響していると思う。
実際には、東西を結ぶ交易路は無数にあり、東西の交易路を南北に連絡する道も、また多い。
それらの道は交易だけに留まらず、戦争や征服の侵略路でもあり、東西文化の交流や、宗教の伝播をももたらした。
ユーラシア大陸の、東西、南北の架け橋としてのシルクロードを、実に多くの人と物が行き来したことであろう。
複雑で雄大ないにしえ人の歴史が、とてつもなく広い地理的空間の、砂漠やステップの草木の下に積み重ねられている。
数千年にわたって、この道を行き来して、後の世に何も残さなかった圧倒的な多くの人々がいる。
そこには、誰にも語られないまま消えていった、いにしえ人の喜怒哀楽、愛憎の星の数ほどのドラマがあっただろう。

私は、歴史家でも考古学者でもない。 写真家でも、画家でもない。 仏教やイスラム教への信仰心もない。
シルクロード という言葉の響きに惹かれ、端から端までの地理的な広がりに関心を持っただけのミーハー だ。

砂漠を渡る風、草原を渡る風に身をさらし、廃墟や寺院にたたずんだら、何か聞こえてくるだろうか。
シルクロードの風に吹かれて来たい。 ひたすら、そう思い続けて、突如として願いがかなっただけに過ぎない。
は現在地です)
目     次
いざ、出発

成田での搭乗手続きが済むと、特別待合室へ案内された。
特別待合室に入るなんてVIN SUR VIN のボルドー旅行以来だから、
これまで高額の旅行には参加していなかった、ということの証か。
自己紹介。 皆さん、控えめな上品な方ばかりなのだろうか。名前しか名乗らない。
この中に、後々不愉快な思いをさせる 「あの馬鹿」 が居るとは知る由もない。
甚平を着て、サンダルを突っかけた、へんてこりんなオヤジが居るナ、とは思ったが。
私の挨拶。 
シルクロードを2ヶ月かけて旅行できるのは嬉しい。 家人の目が届かないところに2ヶ月居るのも(密かに)嬉しい。
旅行中、これまで伸ばせなかった髭を、伸ばせるだけ伸ばそう。 伸び揃うまで見苦しかろうが、ご勘弁を。
髭を伸ばせる! ルンルン気分の私を乗せた中国東方航空は、かくして上海に向けて飛び立ったのであります。
私の家業は家内と二人で切り盛りしている。
2ヶ月間の長期不在は、そっくりそのまま、家内への負担増となる。
それを承知と覚悟で、私を送り出してくれた家内に、心から感謝して、一世一代の旅行を終えた。 
ありがたいことだ。
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