ミル・アラブ・メドレセ 
1536年建立
ナディール・ディバンベギ・メドレセ
偶像崇拝を否定するイスラムの教義
にそむいて飾られた神学校の入口。
1622年建立
アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ
イスマイール・サーマーニ廟
892年から943年にかけて作られた、
中央アジアに現存する、最古のイスラム建築。
バラハウズ・モスク
1718年に立てられた、ブハラ・ハーン専用のモスク。
20本の柱のテラスがあり、アイヴァンという建築様式
ブハラのシンボル カラーン・ミナレット 1127年建立
金曜日に信者に祈りを呼びかける。
砂漠から来る隊商の目印であり、見張りの塔であり、
死刑囚を投げ落とす処刑の塔であった。
「4本のミナレット」 という意味で
チャル・ミナル と呼ばれる
単純明快。
ジャハンギール廟に隣接して、ハズラティ・イマーム・モスクがある。
午後1時。 この街にこんなにお年寄り(男性ばかり)がいるのか! と思うほど、大勢のお年寄りで埋め尽くされていた。
モスクからはみ出して、縁側にまで座っている。
時間になると一人の男(アッジン)がミナレットに上り始めた。 カメラを向けると映していい、と合図してくる。
サービス精神旺盛で、我々に顔を覗かせて笑ってくれた。 やがて彼は朗々とアザーンをはじめた。
  ブハラ
  中央アジアでは、サマルカンドと並ぶ文化遺産の宝庫だが、ブハラのほうがより伝統的な都市の姿を保っている。
  ブハラ旧市街の主要建築物の配置は9世紀以来、ほとんど変化していない。
  帝政ロシアの時代も、ロシア化することが少なかったこの街は、常に中央アジアの定住文化の中心であり続けた。
  現在はウズベキスタンに属するが、市民の大半はタジク人で、彼らは自らの町をタジク風にブハーラーと呼ぶ。
  中央アジアの旅行記を読むと、この街を訪れたら必ず下痢をするそうな。
アザーン  肉声による礼拝(サラート)への呼びかけ。 信徒に礼拝の時刻を知らせる重要なもの。
アッジン  アザーンを行う人。 最近はテープをスピーカーで流すモスクも多い。
ティムールの父が眠るドルッティロヴァット建築群の
コク・グンバス・モスク
ティムールが葬られるはずだった
ドルッサオダット建築群のジャハンギール廟
宮殿(アク・サライ)跡と広場に立つティムール像
結婚式を挙げると参拝に来るらしい。 数組のカップルがいた。
シャフリサブス  サマルカンドからブハラに向かう途中、ティムールが生まれた街を訪れた。
            7世紀には玄奘(三蔵法師) も立ち寄っているらしいが、一体、あの人は何処まで歩き回ったのか!
パスポートにスタンプを集めるのが趣味の人は残念だったろう。
タジキスタンはこんな不安定な国だから、事前にビザを発給しないんだ。 これも中央アジアの一面。
そんな、無茶な。 と思ったところで、言ったところで、
ゲートが開くわけもなく、すごすごと引き返した。
半日の往復観光だからあきらめたものの、
タジキスタンが通過国だったら‥‥。
タジキスタンに一つの村が誕生し、開村式に大統領が
出席するのだが、身辺警護のためヘリコプター飛来の
時刻が知らされていない。 開村式を終えて
ヘリが飛び去るまで国境のゲートは開かない。
予定では、
サマルカンドから半日かけて隣国のタジキスタンの
遺跡を観光することになっていた。
国境まで行ったが、ゲートが開かない。
レギスタン広場
1枚の写真に納まるものを、
広場に特設ステージを組んでいるから
無粋な写真になる。
← は、翌朝、タクシーを飛ばして
写してきた写真。
チンギス・ハーンの襲撃以降、
アフラシャブの丘から移動した、
新しいサマルカンドの中心。
3つのメドレセ(学校) は
サマルカンドのシンボル。
サマルカンドでは、レンガむき出しの建物が、
とても新鮮に目に映る。
ルハバッド廟
ビビハニム・モスク

1399年、インド遠征から帰ったティムールが、
世界に比類のない壮大なモスクの建設に取り掛かった。
モスクは彼が死ぬ1年前に建てられたが、
建設を急ぎすぎ、巨大すぎた構造に崩落が続き、瓦礫と化した。
ビビハニムは、彼の妃の名。
このモスクにまつわる言い伝えも多い。
大モスクと2つの小モスク、入口のアーチで修復が進んでいる。
グリ・アミール(支配者の墓 ・ タジク語)廟     ティムールとその一族が眠る霊廟。 青の都 ・ サマルカンドでも
                                ひときわその青さが引き立っている壮大な建物。
シャーヒズィンダ廟群

アフラシャブの丘に隣接して、ティムールにゆかりの人々の霊廟が並ぶ。
これだけ集まれば、装飾のサンプルみたい。 補修が行われている。
それにひきかえ、こちらは 50人乗りのバスに乗客は9人。添乗員氏と現地ガイドを加えても11人。
通路にお尻が落ちないように気をつければ、寝転がっても移動できる。
1時間半ごとにトイレ休憩もとれる。 少なくとも、中央アジアでは最上級のバスツアーなのだ。
なんという彼我の差! バスに向かって手を振ると、疲れた顔なのに手を振ってくれる人懐っこさ!
バスの乗客は男女半々と見たが、
それにしても、中央アジアではこんなにも大勢の人たちがバスで移動する必要があるのだろうか。
不思議。
  サマルカンド
  シルクロードの一大中継地点としてあまりにも有名なこの街は、かってマラカンダと呼ばれた。
  都市文明のレベルの高さにアレキサンダー大王も驚嘆したという。
  13世紀、モンゴルの攻撃で壊滅的な打撃を受けたが、ティムール帝国の首都となり、
  「青の都」 「イスラーム世界の宝石」 「東方の真珠」 など、多くの異名で呼ばれている。
  帝政ロシア以後、街は往時をしのばせるものをなくしたが、
  ティムールによる建築群は600年たった今も、「青の都」 にふさわしい威厳と姿をとどめている
私達は青空トイレの後に、ドライバーが入れてくれたコーヒーを飲みながら休憩していた。
通り過ぎる車をぼんやり眺めて見やっていたが、やたらバスが多い。 中距離、長距離の乗合バスだ。
長距離、中距離の分類は我流で、長距離は国際線で1000km 程度、中距離は国内の主要都市間で
500km 、と勝手に定義付けた。 見分け方はバスの大きさを基準にした。
バスの大きさにかかわらず共通しているのは、全て満席。 荷物を屋根に積んだバスもある。
運転席横の乗降口近くに3・4人立っているのは当たり前。
冷房は効かないのだろう。 窓を開けている。 その窓から直射日光を遮るためのカーテンがひらひら。
カーテンの隙間から顔を出している人も多い。 30度を超えた風でもありがたいのか。
窓から覗いた顔は、総じて疲れた顔だ。 沢木耕太郎の 『深夜特急』 の世界と変わっていない。
バスの性能と、道路は良くなっただろうが。
タシケントを発ってサマルカンドに向うと、両側から迫った岩山を切り開いたような狭間がある。
ティムールの門、と呼ばれている。
タシケントから3時間。1時間後には、いよいよサマルカンドだ、という場所にあるから、いい目安になる。
ウズベキスタンの幹線道路で、トラック、バスなどの交通量が多い。
日本人の感覚なら、ホッと一休み。 ところが、このポイントで立ち止まる車は、いない。
猛烈なスピードで走り去る。
ティムールの門
タシケント(東)側
サマルカンド(西)側
シルクロード 大走破 風の旅  「ティムールの門 ・ 走り去る風」
青いモスクの国には
イメージしていたシルクロードの
すべてがあります
「シルクロード大走破」 の旅では
ハイライトと呼ぶべき箇所が目白押し
タシケント を発って、サマルカンド から
ブハラヒワ を訪ねる1週間は
ハイライト中のハイライトでしょう
歴史ある街並み、青いモスク、
華麗なアラベスク模様、‥‥。
歴史の街が多く残るウズベキスタン
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表紙  シルクロード大走破 風の旅 旅程  北緯40°どこまでも西へ
旅行記  馬閑人 西方見聞録
1 中国T ( 西安 ・ 敦煌 ) 2 中国U ( 新疆ウイグル自治区)
3 カザフスタン ・ キルギスT 4 キルギス ・ カザフスタンU
5 ウズベキスタンT 6 ウズベキスタンU
7 トルクメニスタン 8 イランT
9 イランU 10 トルコT
11 トルコU  (は現在地です)

表  紙  シルクロード大走破 風の旅       旅  程  北緯40°どこまでも西へ

旅行記  馬閑人 西方見聞録
        1 中国T ( 西安 ・ 敦煌 )  「ゴビ灘をわたる風」
        2 
中国U ( 新疆ウイグル自治区  「白楊溝廃寺に吹く風」 他
        3 
カザフスタン ・ キルギスT  「中国 ・ カザフ国境に澱む風」 他
        4 キルギス ・ カザフスタンU  「古戦場の長閑な風」
        5 ウズベキスタンT (サマルカンド ・ ブハラ)  「ティムールの門 の風」
        6 
ウズベキスタンU (ヒワ)  「綿花畑の乙女にそよぐ風」
        7 トルクメニスタン  「旅先にまで娑婆の風」
        8 イランT (テヘラン)  「星霜30年、テヘランに吹く風」
        9 イランU (ペルセポリス ・ イスファハン)  「ペルセポリスの暑い風」
        10 
トルコT (カッパドキア)  「アナトリア高原の風」
        11 
トルコU (イスタンブール)  「海峡の街で いい気分の風」 

は現在地です)
目   次
ウズベキスタン
T
西方見聞録 5 ウズベキスタンT  タシケント〜サマルカンド〜ブハラ〜ウルゲンチ
                                           2005/08/31〜09/05


08/31  タシケント (
陸路) サマルカンド(観光、泊)
09/01  サマルカンド (
陸路) タジキスタン国境往復 (陸路) サマルカンド(観光、泊)
09/02  サマルカンド (
陸路) シャフリサブス (陸路) ブハラ(泊)
09/03  ブハラ (観光、泊)
09/04  ブハラ (
陸路) ウルゲンチ(泊)
09/05  ウルゲンチ 陸路 ヒワ観光 ウルゲンチ(泊) 
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アフラシャブの丘

「青の都」 として、中央アジアのシンボル的な
存在のサマルカンドに着いた。
日程の都合もあったのだろうが、
最初に訪れたのが見渡す限り何もない丘。
モンゴルによって徹底的に破壊される以前の
サマルカンドはこの丘の上にあった。
モンゴルによって給水設備が破壊され、
水が来ない場所から人々は去った。
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