表  紙  シルクロード大走破 風の旅       旅  程  北緯40°どこまでも西へ

旅行記  馬閑人 西方見聞録
        1 中国T ( 西安 ・ 敦煌 )  「ゴビ灘をわたる風」
        2 
中国U ( 新疆ウイグル自治区  「白楊溝廃寺に吹く風」 他
        3 
カザフスタン ・ キルギスT  「中国 ・ カザフ国境に澱む風」 他
        4 キルギス ・ カザフスタンU  「古戦場の長閑な風」
        5 ウズベキスタンT (サマルカンド ・ ブハラ)  「ティムールの門 の風」
        6 
ウズベキスタンU (ヒワ)  「綿花畑の乙女にそよぐ風」
        7 トルクメニスタン  「旅先にまで娑婆の風」
        8 イランT (テヘラン)  「星霜30年、テヘランに吹く風」
        9 イランU (ペルセポリス ・ イスファハン)  「ペルセポリスの暑い風」
        10 
トルコT (カッパドキア)  「アナトリア高原の風」
        11 
トルコU (イスタンブール)  「海峡の街で いい気分の風」 

この、ゴビ灘の中の一本道にも風は吹いているのだろうか。
地平線のどの方角から吹いても、さえぎるものの何もない一本道に。
敦煌から 200km 離れた敦煌駅
かつてはらくだが黙々と進んだ、であろう。
いまはバスが猛然と走る。
それでも景色は変わらず、柳園鎮に近づく気配もない。
遠い。 実に、遠い。
漠野を渡って、吹き続けたであろう風は、今日も強い。
帰国を許されなかった李広利にも、
この風は吹きつけたのだろうか? 
だったら、さぞ辛かったろう。
盛夏に、観光で訪れた私には、
吹く風が強ければ強いほど心地よかったが‥‥。
玉門関
オアシス都市・敦煌で、市街地を取り囲んでいる緑野の範囲は、水が供給される範囲と一致する。
緑野を一歩出ると、そこからは地平線のそのまた先まで、果てしない漠野が続く。
敦煌から西へ75km。 漠野の真っ只中に、ゴロンと石ころが転がっている。そのようにしか見えない。
これが、陽関と並び称された古代の関所・玉門関の今の姿。 漢代には、ここから先が西域だった。
西に汗血馬を求めて遠征し、敗れて帰り着いた李広利を、怒った武帝が門を閉じて入れなかった史実が残る。
敦煌に鉄道は通っていない。 でも 「敦煌駅」 はある。
200km 離れた柳園鎮に!
敦煌から柳園鎮まで、一本道はゴビ灘のなかを
一直線に伸びる。
車窓の右も左も、とにかく真っ平ら。
景色の上半分は雲ひとつない空。
下半分は変化のないゴビ灘。
地球は丸い、という先入観があるから、
心なしか地平線も丸みをおびて目に入る。
シルクロード大走破 風の旅  『 ゴビ灘(だん)をわたる風 』
広漠たる原野、荒野を、中国では 「ゴビ灘」 (ゴビ砂漠との混同に注意) と呼ぶ。
「砂漠」 と同義語である、と言って差し支えあるまい。
敦煌近郊の鳴沙山のような砂山は、砂漠の中では例外中の例外である。
砂漠のほとんどは、岩石砂漠で、乾燥した土壌に岩石がごろごろして、ラクダ草などがまばらに生えている。
この広漠たる原野、荒野を、私は 「漠野(ばくや)」 と名づけた。
鳴沙山 月牙泉

莫高窟の見学を終えたら、観光都市・敦煌のお決まりは
鳴沙山と月牙泉である。
テーマパーク・鳴沙山の入口には
おびただしい数の駱駝がたむろしている。
駱駝の背に揺られて山の麓に着いた。
頭上を飛ぶモーターハングライダーのエンジン音と、
けたたましいサンドバギーの乾いたエンジン音で、
どこかのサーキットに居るのかと勘違いする。
情緒も何もない。

30分かけて、鳴沙山の山嶺まで登り詰めた。
それでなくても小さい月牙泉が、小さく見える。
乾陵  唐の高宗と、唯一の女帝・則天武后の合葬墓
法門寺  後漢の建立で1800年の歴史を持つ。
地下宮殿には指の仏舎利が収められている。
  敦煌
  沙州と呼ばれた敦煌は、甘粛省の西端に位置するオアシス都市で、
  漢の時代には西域に対する最前線の軍事拠点としての重要な役割を担った。
  吐蕃、西夏に征服された歴史を持ち、幾度も興亡の戦火にさらされた街である。
  が、いつの時代も東西の人と物が行き交う結節点としての機能を果たし、
  東西の交易によってもたらされた文化の花が開いた街である。
  その集大成は莫高窟で、砂漠の大画廊として脚光を浴びている。
  現在の敦煌は清代からの街で、古代の敦煌とは場所が異なる。
秦兵馬俑博物館

フツーの旅行者が西安で、ただ1箇所行く、ただ1箇所見る、
とすれば。ここしかない。
始皇帝の陵墓を守る陪葬物として作られた等身大の兵士や馬が、
一体ずつ表情を変えて立ち並ぶ様は、一種異様で、
慄然とするものがある。
一号抗、二号抗、三号抗と見て回ったが、
最初に入った一号抗では、今にも動き出さんばかりの迫真力に
見た瞬間、息を呑んだ。

権力を弄んだ始皇帝の、愚かな遺物であり、
始皇帝の時代の製造技術の高さを偲ばせる、偉大な遺物である。
一人の皇帝のために投入された労力に思いをめぐらすと、
中国という国のスケールに驚嘆するのみ。
どこかの首相も、これ見よがしに神社に参拝するなどやめて、
小人物なら小人物でも構わないから、
愚かで偉大なものの一つでも後世に残せばいいのに。
王維が、安正 (敦煌の近く) に向けて旅立つ元家の次男を見送った詩があります。
西門 (安定門)

西安の中心部を取り囲む城壁は、唐の長安城を基礎に
明代の1378年に築かれたものだ。
城壁の上部を一巡すれば14km あるという。。
毎年マラソンが開催されているそうな。

西門(安定門)はシルクロードへの最大の出入口で、
ここから多くの旅人、商人が西を目指し、
またあるものは長い旅の後に西からたどり着いた。
西門の櫓から西を眺めると,、
西へまっすぐ伸びた西関正街を落日が染めていた。
あの方向にサマルカンドがあり、
そしてイスタンブールがある‥‥。
勸君更盡一杯酒 西出陽関無故人
王維が見送ったのは、西安の近くの渭城ですが、
葡萄舎人も、西安を発って敦煌へ、更に西へ向かいます。
でも、この街には 私に酒を勧める人はおろか、見送ってくれる人もいません(笑) 嗚呼。
そういえば、親爺さんの掲示板に、学生時代の親爺さんが安宿で初老の人から聞いた言葉として
「帰る場所があるのは 『 旅 』 とはいわない」
とありました。 そうなんだ。 私は好んで 「旅」 を使うけど、所詮 「旅行」の範疇なのです。
西安から敦煌への河西回廊も、当時は難儀な道だったでしょうが、私達は飛行機でひとっ飛びですし‥‥。
「旅」 を 「旅行」 に代え、「旅日記」 を 「旅行記」 に代えて、シルクロード大走破のご報告を続けます。
今回、陸路でたどれない河西回廊と、タクラマカン砂漠の天山南路は、残された宿題です。
大雁塔 (慈恩寺)

慈恩寺は唐の高宗が
母親の供養のために建立した仏教寺院。
大雁塔は、玄奘(三蔵法師)がインドから持ち帰った
経典や仏像を保管するために、652年に建立された。
いまは山門前の広場に玄奘の像が立っている。

旅行中、玄奘が立ち寄った場所を数箇所訪れたが、
彼の足跡を地図でたどれば、常識を超えた遠大さに
ただ驚嘆するばかりだ。
その困難さを偲べば、今なら月に行くのに匹敵するかも。
絲綢乃路(シルクロードの中国名)起点群像

西安の西のはずれに置かれている
シルクロードをテーマにした石像。 最近のものだ。
この場所は唐代の開遠門の跡で、
当時はシルクロードへの出発地だったという。
隊商(キャラバン)の情景をかたどっいて、
これから西へ向かう私に相応しいモニュメントだった。
  西安
  古都・西安は、長安と呼ばれていた。
  BC11世紀から10世紀までの2000年間にわたって、歴代の都が置かれた街だ。
  始皇帝、武帝、太宗、武則天、玄宗、楊貴妃‥‥。
  数え切れない英雄やヒロインたちが活躍した舞台となり、幾多の物語を産んだ街である。
  この街をつぶさに見て回るには1ヶ月を要するというから、スケールが違う。
  また、西安はシルクロードの起点であり、同時に終点でもある。
  東の文化や産物はこの街から西に向かい、西の文物も人づてにこの街にもたらされた
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表紙  シルクロード大走破 風の旅 旅程  北緯40°どこまでも西へ
旅行記  馬閑人 西方見聞録
1 中国T ( 西安 ・ 敦煌 ) 2 中国U ( 新疆ウイグル自治区)
3 カザフスタン ・ キルギスT 4 キルギス ・ カザフスタンU
5 ウズベキスタンT 6 ウズベキスタンU
7 トルクメニスタン 8 イランT
9 イランU 10 トルコT
11 トルコU  (は現在地です)
は現在地です)
目   次
中国 T
西方見聞録 1 中国T  西安〜敦煌〜ハミ(哈蜜)  2005/08/13 〜 17

08/13
  成田 (
空路) 上海 (空路) 西安(泊)
08/14  西安 (
陸路)  法門寺、乾陵、小雁塔、西門  (陸路) 西安(泊)
08/15  西安 (
陸路)  大雁塔、兵馬傭博物館、秦始皇陵 (陸路) 西安  (空路) 敦煌(泊)
08/16  敦煌 (
陸路)  敦煌莫高窟、鳴沙山、月牙泉 (陸路) 敦煌
08/17  敦煌 (
陸路)  玉門関、西千仏洞  (陸路) 星星峡 (陸路) ハミ(哈蜜)(泊)
4時に目がさめた。窓を開けたら、満天の星空!
この季節、日本では見えないはずのオリオン座が、地平線ぎりぎりに見える。
話には聞いていたが、ここまでくると、怖いくらいに星が大きい。
ホテルの窓は東を向いている。
朝6時。 真一文字の水平線に朝の予感が。見晴るかす限り、地平線は何処までも一直線。
朝7時。 太陽が昇った。 荘厳だ。 このホテルはその名も、敦煌太陽大酒店。
莫高窟

伝説では、366年に楽尊によって造営が始まった、
敦煌の莫高窟の石窟は492あるという。
そのうち、公開されているのは40窟で、
見学できる石窟はそのうち10。
その10窟はガイドのセレクトに任されている。
別料金で特別窟の参観も出来る。
特別窟2を含めて12窟を見学した。
見学した順  
328 17 24-23 257 249 96 130 148 156 57 61
番号順  
17 24-23 57 61 96 130 148 156 249 257 328

いつもヨーロッパのキリスト教会を見るとき
桁外れの規模や装飾に宗教の力の凄さ感じていた。
人は弱い。弱いから宗教に縋る。
宗教の為なら寄進する、宗教のためなら人も殺す。
莫高窟にも、寄進者の姿が壁画として入り口に描かれていた。
大谷探検隊を含めて、略奪の跡も、はっきり残っている。
異教徒から顔をを剥ぎ取られた仏像も多い。

ところで、莫高窟での写真撮影は禁止されている。
中に入らず、柵の外にいる中国人ガイドに頼んで
シャッターを押してもらった記念写真がこれ。
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