『 ワインって、料理が美味しくなって、会話が弾み、明日の活力になればいい 』
「ワインがある暮し」 にドップリ浸かって、ワイン色に染まることが喜びですから、
健全なワインが傍らにあるだけで充分満足です。
いつもは独酌ですが、ワインを大勢で飲むのが好きですから、
仲間とワインを楽しむためだけの家・葡萄舎を建て、ワイン会の会場として開放しています。
10人集まれば90個前後のグラスを洗いますが、まだ、苦にはなりません。
‥‥と、7年前に書きましたが、寄る年波に、多少、苦になってきたのは事実です (笑)
✳表示されている時刻は、このページを開いた時刻です。 ちなみに下関は
『 ワイン大好き! 薀蓄(うんちく) は程ほど ソムリエの真似は好きじゃない ワインの絶対評価、大っ嫌い!』
生意気ですが、私の本音です。
薀蓄はひけらかすためでなく、ワインを楽しむためには必要だと思います。
ワインから薀蓄を切り離したら、ただの酒になってしまいますから。
ワインを飲むとき、儀式のように、見て、香りをかいで、口に含んで、
ソムリエもどきのコメントを発するのは、どうも好きになれません。
また、ワイン評論家の評価をワイン選びの基準にする風潮も好きになれません。
ワインを絶対評価すべきではないと思っています。
「このワイン、パーカーが94点をつけたんだよ」 などと勧められるのは、私が最も嫌いな勧められ方です。
「あなたは、どう思っておいでなのですか?」 と聞きたくなります。
ワインは、傷んでなければいい
私がワインを好きなのは
ワインを吟味して、色の、香りの、味わいの違いを並べ立てるためではなくて
ラベルの向こうに、グラスの中に
聖地 (銘醸地) の畑や、村や、そこで出会った人を思い浮かべるためです (ちょっとキザ?)
聖地の 「いま」 はどんなだろう? それを知りたい、という欲求に駆られます
私のスタンスといったものです
というだけのことです
ここで述べるのは
酒につぎ込みました
ワインに対する
決して自慢にはなりませんが
1991年から
その対象がワインになった
社会人になってからの私は
自由になる金のすべてを
『 あのワイン、このワイン、みんな違って、みんないい
』
私のワイン歴は、未だ20年未満です。 ワインを自己流で飲んできた私に、飲み手の思想なんてありません。
ただ、銘醸地で数多くの造り手に会ってきましたから、
彼らの真摯な姿を思い出して、それぞれのワインのいいところだけを見ようとします。
ワインには、造り手の 「美味しくなれ!」 との願いがこもっているはずで、ワインに対する私の基本的な姿勢です。
ワインの楽しみ方には、100人に100通りあることを十分承知したうえで
海峡の街・下関でひっそりとワインを飲んでいる 「 馬閑人的 ワイン飲みのこころ 」です
『 美味しいワインを飲むより、おいしく ワインを飲みたい
』
ワインの楽しみ方には、100人で100通りあります。 人それぞれの価値観を尊重します。
そんな中で、楽しみを共有出来る方にお会い出来れば、望外の喜びです。
人生は旅である
ある日忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮の彼方に往ってしまう
その間の一歩一歩の歩みは実にその時のみの一歩一歩で、一度往っては再び還らない
私は、ワインを飲むことを以って私の旅の一歩一歩の響きであると思いなしている
我に帰ってしめやかに打解けて何等憚るところなく我と逢い我と語る時は
実に、葡萄舎の照明を少し落としてワインを飲んでいる時である
その時に於いて私は天地の間に僅かに我が影を発見して、安堵する
言い換えれば私にとってワインは、その時々の私の生命の賛歌である
私は、漠然と、漫然とワインを飲んできたが、全くの理屈なしにワインを飲み続けたい
「旅のページ」 に、 「聖地巡礼」 と称してワインの銘醸地を訪問した旅の記録があります 併せててご覧ください |
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「聖地巡礼」 表紙 | ||
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「旅のページ」 に、「聖地巡礼」 と称してワインの銘醸地を訪問した旅の記録があります。 併せててご覧ください。