34°17' 37"N  132°59' 47"E 白色 円形 石造
無等 等明暗白光 明3秒暗3秒 8500カンデラ
光達距離 13.5海里(約25km) 地上〜頂部:6.6m 水面〜灯火:18.8m
初点灯 明治27年5月15日(石油使用 百燭光)  平成4年3月 改築

かつては 「花の27年組」 の一基だった。 平成に入って改築され、初代は高松市の四国村に移設された。
ちなみに、四国村には初代大久野島灯台のほかに、江埼灯台、鍋島灯台、クダコ島灯台の吏員退息所も移設されている。
旧い建物に関心がある方は訪問したくなるだろう。
二代目の現灯台はキープコンセプトと言えるかどうかは別にして、改築した灯台としては珍しく石造だ。
島には国民休暇村もあり、リゾート地としての整備の一環で働きかけもあったのだろう。

島ではウサギが放し飼いにされていて、のどかな平和な島だ。
ところが、この島は戦時中には地図から抹消された 「負の歴史」 を持っている。 陸軍の毒ガス製造の島としての時代だ。
波静かな瀬戸の海に囲まれた美しい島を 「毒ガスの島」 と呼ばせてしまった罪滅ぼしに、
平成になってからの改築なのに、初代を彷彿とさせる石造にしたのかもしれない。 観光資源としての思惑は別にして。

大久野島には、竹原市の忠海港と大三島の盛港を結ぶ船が日に5便 (往復10便) 寄港する。
便によって、大久野島に着岸する桟橋が変わる。 桟橋間の距離は600mあるから要注意。 時刻表に使用桟橋の記載あり。
片道12〜3分だから、その気になれば行きやすい島で、私の爆走の灯台めぐりは 「毒ガス資料館」 などには立ち寄らないから、
三原〜忠海〜大久野島 (灯台) 〜忠海〜三原 を、2時間半で済ませた。  時刻表は → 大三島フェリー

 TOP PAGE
 SITE MAP
 LIGHTHOUSE
 灯台めぐり・表紙
 「西瀬戸内海漂泊」
 @ 表紙
  A 三原ノ瀬戸の灯台
 B しまなみ海道の灯台
 C 釣島と大下島
 D 大崎上島の2基
  追補 広島と山口の3基
  は、このページです

 訪問順では、尾道〜向島(大浜埼灯台)〜高根島だが、大浜埼灯台は次ページに回す 

高根島(こうねしま)灯台

川と間違えるほどの
狭い尾道水道を隔てて立つ。
離島航路の拠点として栄えた
往時の尾道の、
シンボル的存在だった灯台だ。
市民の愛着の
深さが
「尾道灯台」 と改称させたのか。

私の 「灯台七不思議」 の一つは、平成10年に選定された 「灯台50選」 に高根島灯台が選ばれていることだ。
高根島灯台の歴史からいって、50選に選ばれた他の灯台と比べて何ら遜色はない。
ただ、西瀬戸内海に点在する 「花の27年組の代表」 として選ぶなら、明治27年の姿のままの灯台があるじゃないか?
高根島は生口島の属島のようなものだから、生口島の皆さんの組織票が動いたのか? と勘ぐってしまう。

道のない道を進む時は
灯台に延びる電線が頼りだが、
肝心の灯台に上る道が見つからない。
電線に止まっているカラスが、とても羨ましかった。

牛ノ浦灯台も、
初点プレートを撮る、
という目的がなければ、
尾道水道をはさんで
対岸から眺めるだけで事足りる。
小歌島灯台と同様に、
長い光達距離を持っているが
この狭い水道で
そんな光達が必要だったのだろうか。
34°23' 32"N  133°10' 48"E  白色 塔形
等明暗白光 明3秒暗3秒  2000カンデラ(11M)
光達距離 15海里  地上〜頂部:10.4m 水面〜灯火:28m
初点灯 昭和12年1月

尾道水道の西口を知らせる灯台。 小歌島灯台と似たような狭い尾道水道に面している。
民間の工場敷地内にあって、行くのに厄介だ。
正月で門扉が閉ざされていたから、一段高い造成地を進んだが、そのルートが正しかったかは疑問だ。
再訪はまず考えられないから、行って、初点プレートを撮ってくればそれまでだ。

瀬戸田水道を高根大橋で渡ると高根島。 峠ノ下という集落から峠をトンネルで抜けるのだが、ミカン畑の中の道は分かりにくい。
間違えて2度バックした。 トンネルを抜けるとあとは分かりやすい。 分かりやすいところには道標が立っている。
道標を建てるなら、トンネルの手前だ。
灯台の後背には、灯台の規模からすると広い敷地が残っている。 明治期に、灯台が近代化の象徴だった証し、か。
たどり着いたのは夕暮れで、点灯していた。 ちゃちな灯器でも、灯りが点れば嬉しい。

牛ノ浦(うしのうら)灯台


小佐木島灯台から対岸を見る。 三原ノ瀬戸は狭い。
ということは、忠海〜三原を走ると、灯台が遠望できる。

朝日を浴びて逆光

船が来るまでウサギを撮っていたが、
船着き場が変わっているのに気付いて600m走った。
危うく乗り遅れるところだった。

A

このページの灯台たち
  大久野島灯台
  小佐木島灯台
  小歌島灯台 (尾道灯台)
  牛ノ浦灯台
  高根島灯台

このページは
A 三原ノ瀬戸の灯台 です
次のページは
B しまなみ海道の灯台 に続きます
 
34°19' 49"N  133°04' 46"E  白色 塔形 石造
300mm 等明暗白光 明4秒暗4秒  3,500カンデラ
光達距離 17海里(約31km)  地上〜頂部:4.3m 水面〜灯火:44.7m
初点灯 明治27年5月15日  改築 平成5年3月

平成5年の改築で、塔頂部の灯室と灯器が取り払われ、新しく小さな灯器が据え付けられている。
なんとも珍奇な姿になってしまったものだが、現存する石組みはまぎれもなく 「花の明治27年」 だ。
なまじっか、土台ががっしりしているだけに、ちょこんと乗った灯器とあまりにもアンバランスになっている。
海保好み(?)の、この無様な姿は、常神岬灯台でもお目にかかった。 灯台ファンとしては哀しい光景だった。

小歌島(おかしま)灯台 尾道(おのみち)灯台

34°23' 54"N  133°11' 52"E  白色 塔形
単閃白光 毎4秒に1閃光  2000カンデラ(11M)
光達距離 16海里  地上〜頂部:11.4m 水面〜灯火:33m
初点灯 昭和8年12月1日

三原ノ瀬戸は狭い。 尾道水道はもっと狭い。
尾道側から尾道水道越しに灯台を写したら、わざわざ灯台まで行かなくてもよさそうだが、
私には初点プレートを写すという大目的がある。
小歌島灯台は灯台表では 「尾道灯台」 と改称されているが、初点プレート収集家としては、この灯台は 「小歌島灯台」 だ。

小佐木島港の防波堤の付け根に
やたら高い塔がある。
港を出てすぐの海面に土岩という
岩礁があるらしいが、
私が見たのは反射板だけだ。
灯標や照射灯は
私の灯台めぐりの対象外なので、
普段ならわざわざ見に行かないが、
船を待つ時間の退屈しのぎに。
ままならない船旅の産物だ。

私が初点プレートを写真に撮るのは、
灯台まで行かなければその写真が撮れないからだ。
確かに行った、という証しだ。 
ところが、小佐木島灯台には初点プレートがない。
代わりに、灯器を写してきた。

34°21' 09"N  133°06' 00"E  白色 塔形 石造
無等 等明暗白赤光 明2秒暗2秒  5000カンデラ(13M)
光達距離 14.5海里  地上〜頂部:6.5m 水面〜灯火:24m
初点灯 明治27年5月15日

平成に改築された大久野島灯台と違って、正真正銘の 「花の27年組」 の一基だ。
灯台それ自体は明治の薫りり漂う 「いい灯台」 だ。 「花の27年」 にふさわしく、小柄ながら古武士然としている。
責任のすべては私の落ち度だが、行きも帰りも 「お騒がせな灯台」 になってしまった。
それだけに、決して忘れられない灯台になったののも事実だが。

離島への定期航路は、通年一本のダイヤで運行するものも多いが、例外もある。
例外の一つは、海水浴客や観光客を当て込んで夏場に増便する場合。 それはそれで便利になることだがダイヤが変わる。
もうひとつは、正月の三が日に減便する場合だ。 小佐木島航路がそうだ。
8時過ぎに乗る予定の第1便が正月の三日間はない。 11時まで待て、と言う。 待てないから、
その間に三原港から大久野島まで往復して、大久野島灯台訪問を済ませることができた。 転んでもただでは起きないのだ。

地形図を見るとと、小佐木島の周回道路から灯台への道はない。 現地に行ってみても、ない。
灯台はすぐそこに見えるから、周回道路から浜に出て、灯台への斜面をがむしゃらに上る。 斜面と言っても高度差20mだ。
がむしゃらに上ったときに、ズボンの後ろポケットに入れていた財布を落としたらしい。
運転免許証、カード、使う予定のない現金は車に置いていたから被害は軽くて済んだのだろうが‥‥。 

小佐木島は心優しい島だ。 桟橋の待合所には湯茶の道具一式が置いてある。 三原港までわずか13分の船旅なのに。
時刻表は → マルト汽船

小佐木島(こさぎしま)灯台

 TOP PAGE
 SITE MAP
 LIGHTHOUSE
 灯台めぐり・表紙
 「西瀬戸内海漂泊」
 @ 表紙
  A 三原ノ瀬戸の灯台
 B しまなみ海道の灯台
 C 釣島と大下島
 D 大崎上島の2基
  追補 広島と山口の3基
  は、このページです

財布は、やはり小佐木島灯台で落としていました。
3ヵ月後、尾道海上保安部より連絡があり、送っていただきました。

大久野島(おおくのしま)灯台

【 三原ノ瀬戸の灯台 】

古い時代から、瀬戸内海は畿内と北部九州や日本海の諸港を結ぶ大動脈であった。
備後灘 ・ 燧灘から芸予の島々を縫って安芸灘に抜ける場合、最短コースは来島海峡を通過する方法だろう。
現に、阪神と北九州を結ぶ大型フェリーはそのコースをとる。
ただし、内燃機関の発達をみるまでは、来島海峡の急潮にはかなわず、代替ルートとして三原ノ瀬戸を航行した。
明治政府は、備後灘〜三原ノ瀬戸〜安芸灘にかけて、灯標を含めて9基の灯台を建設している。
その9基は明治27年に初点灯した同期生だ。 私はそれを 「花の7年組」 と総称する。

9基のうち、鮴埼灯台は廃止、解体、撤去された。 大久野島灯台は改築された。 しかし、7基はいまだ現役でがんばっている。
今回の灯台めぐりは 「花の27年組」 と 明治6年初点の釣島灯台、来島海峡大橋下の3基を訪ねるのが主な目的だった。
百貫島灯台が未訪問のまま残っているのが悔しいが、長生きすれば、また訪れる機会もあろう。
まずは、三原ノ瀬戸の灯台たちから。

inserted by FC2 system