能登
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この灯台が人里離れた山中にひっそりと立っていればそれなりの雰囲気だが、住宅が灯台まで迫っている。
が、住宅が今以上に迫ることはできない。 それから先は30mの崖だから。
宇出津を 「うしつ」
と読むことと、トンビが舞っていたことが印象に残る灯台だ。
ただし、このトンビ、いつ訪れても舞っているかは保証の限りではない。
ひめしまぐり
立地は 宇出津灯台に似ている。 灯台近くまで民家が迫り、その先は崖だ。
灯台は崖の縁に立っているのに、灯台に迫った民家とのわずかな隙間に、これまた異様なフェンスが張り巡らされている。
野間埼灯台に張り巡らされたフェンスをさらに強固にしたような代物だ。
ここまでして灯台ファンを拒むのか! と思って地元の人に聞いたら、防風のためのフェンスだという。
なんでも、とにかく風が強い場所らしい。 風きり音は尋常ではないという。
民家の視界は完全にふさがれているが、風に吹き飛ばされるよりいい、か。
地図で見ると小木の町は南東に開けている。
北西には奥能登丘陵があって季節風を遮るはずだが、局地的な気象状況なのだろう。
灯台の写真を撮るには邪魔だが、住民には命と財産を守るフェンスか。 風が強い場所での生活に、ご同情申し上げる。
立壁の集落でカーナビから見放された。
民家の庭で剪定をしているご主人に道を聞いた。
大体の目星をつけてはいたが、
どこまで車が入るかは土地の人に聞くしかない。
この時間帯、
灯台があるような集落で人に会うことはめったにない。
庭先で剪定をしている人と出会ったのは幸運だった。
教えてもらった道は、
私の 「灯台勘」 とはかなり違っていたから。
遠い河北潟の近くの小学生がクラス単位で釣りに来ていた。
私の到着と入れ違いに、小学生は帰るところだったから、灯台に群がる子供たちを写さずに済んだ。
潮は引いていて、地名の通りに赤い岩がごろごろした上に灯台は立っている。
今回の私は、潮汐表を見ないで来たのに、肝心なところではいつも干潮だ。 一人微笑む。
灯台までの道は畑の中を進むが、畑では苺を栽培していて、
1パック500円という手作り看板が目を引いた。
買って食べるゆとりはなかった。
海中に建てられているから背の高い灯台で、その形状も特徴がある。
この岬が能登半島の最東端になる。
能登半島の富山湾側を 「内浦」、日本海側を
「外浦」 と呼ぶが、その境目だ。
能登
E
能登
能登 内浦の灯台
日本海
能登
F
@ 能登観音埼灯台
単閃白光 毎4秒に1閃光 光達8海里 塔高13m
長手埼灯台をあとにして、
禄剛埼灯台へ向かう途中の寺家漁港を通過中、
沖合に灯標らしきものを見た。
灯台表で調べたら灯台だった。
僅かな岩場に建っているのだろうが、
行ってみたくなる灯台だ。
A 穴水灯台
D
B 宇出津灯台
A
B
C
富山湾
@
能登半島最初の灯台は能登観音埼灯台だ。
時間的には昨日のうちに訪問することは可能だったのだが、越路の灯台と能登の灯台とは区切りをつけたかった。
昭和40年までは 「能登湾口灯台」 と呼ばれていたこの灯台は、
富山湾西岸のほぼ中央に位置して、七尾港に出入りする際の目印だからだろうか、国際番号を持った堂々たる灯台だ。
とにかく灯台の敷地が綺麗だ。 民家をはずれて灯台への道が続くが、「灯台道路 管理者・七尾海保」 の道標がある。
取り付け道路に、海保が管理責任の所在を明確にして道標を出すこと自体が稀で、
そんな灯台が粗末に扱われているわけがない。
灯台受難の時代を迎えて、地元が愛する前に、海保が愛すればこういう形になる。
日本で、恵まれた灯台のトップクラスに挙げていい。 こんな灯台を朝一番に訪れると、とても清々しい気持ちになる。
D 能登城ヶ埼灯台
E 能登赤崎灯台
対岸 (能登島) の能登島灯台を遠望する
最近、私の記憶力が減退したから間違っているかも知れないが、
灯塔の裾模様がツートーンというのは、ここ穴水で初めてお目にかかった。
そしてツートーンには竜ヶ埼灯台や白尾灯台などでもお目にかかることになるのだが、
40年代初頭の、この管区のお偉いさんの趣味だったのだろうか。 灯台ファンから見れば、特徴づけとしては面白い。
F 長手埼灯台
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灯台巡回車 「定宿号」 で2泊した後、能登の七尾では駅前のホテルに泊まった。
居酒屋に出かけ、あるご仁と親しくなって、来年5月、七尾再訪を約束した。
私の母の、その又母が能登の生まれで、私と能登とは点と線で結ばれていたが、
能登半島がいよいよ身近なものに感じられる灯台めぐりになった。